自分史(仕事編)

日本政策金融公庫に入庫し、14か所の異動を経験

昭和56年、国民金融公庫(現・日本政策金融公庫)に入庫、佐賀支店に配属。

 

以後、十三(大阪)、豊橋(愛知)、東京・調査役、宮崎・課長、十三・課長、宇和島(愛媛)・次長、梅田(大阪)・次長、武生(福井)・支店長、佐賀・支店長、東京中央・支店長、広島・中国地区統轄、大阪・南近畿地区統轄、福岡地区統括室と14か所に異動し、かつ後半の7か所は、いずれも2年以内の異動という慌ただしさ。各支店では政策金融機関の一員として、中小企業者への事業資金融資を柱に、災害融資や教育資金融資、創業支援や起業家教育、農商工連携や事業承継に取り組んできた。

 

また、管理職になってからは外部団体との連携も重要な仕事となり、支店長は地域の顔としての役割発揮も求められる。経済団体、業者団体、税理士会、民間金融機関等との関わりの中で、講演会やセミナーの講師、各種会合での挨拶、マスコミ各社からの取材にも対応した。

 

 

当時では革新的な佐賀県立図書館・商工会連合会・公庫との業務連携に挑戦

佐賀支店長の時代に、佐賀県立図書館と商工会連合会と公庫との三者による「業務連携協力に関する覚書」を締結し、図書館での経営・金融相談会やセミナーの共催等、図書館のビジネス支援をサポートする役割を果たした。

 

東京中央支店では、東京商工会議所との連携・協力として、オリンピック招致活動のパレードに参加し、横断幕を掲げて銀座から日本橋まで行進したこともあった。

 

当時は時間外労働や休日出勤、持ち帰り労働は当たり前の激務の日々。仕事にそれなりのやりがいを感じつつ、自分が納得できる仕事がしたいという気持ちと、家族のためにも頑張る…との強い思いがあった。

 

仕事の面白さと職員指導のやりがい

また、昇格すればするほど仕事を面白く感じるようになった。

私が社会人として大切にした価値観や拘りを列挙すれば~

「自分で考え、判断して、行動する(考動)」「腹をくくる」「あるべき姿」「本質を捉える・本質を見据える」「拘りとバランス」「拙速と巧緻」「マニュアルは要らない」…

また、支店運営や職員指導で意識していたことは、「人は言葉や理屈(頭)でなく、心(魂)で動く」「人間力を鍛える」「躾と仕掛け」「努力と徒労」「変化と普遍」「不器用・不格好・愚直・泥臭く」…

職員指導(人を育てる)や意識改革は組織(管理職)の常用語と思うが、そのためにはどうすればいいか。

私は「説き続ける」ことだと考え、「私の思い」を発信し続けてきた。直接の訓辞もあるが、全職員へのメールに固執し、「私はこんなに考えています」(私の拘り)や、「〇〇さんのこういう素晴らしい行動、姿を目にしました(人の目に見えないところで努力していること、些細だが気配りや気が利く対応を褒める)」ことをシリーズ化して発信した。

 

中堅職員との忘れられない思い出

支店長として職員と定期的に面接を行っていたが、一対一の面接は真剣勝負の場でもある。

中堅職員でパフォーマンスは苦手だが黙々と仕事をする者がいた。この地味でおとなしい職員は、子供が障碍者で施設への送り迎えを自らが行っていた。多くは語らないが、話の端々に、他の職員のように飲みに行ったりできないし、異動にもかなり制限があることを辛そうに感じているように思った。なんにも言えなかったが「そんなに自分独りで背負わなくていいんじゃない」と、自然に言葉が出た。途端、その職員の目に涙が溢れた。

今でもその時のことは忘れない。あまり意図して発したわけでなく、聞き方によっては失礼で無責任な言葉だったかもしれないが、その職員の心に届いたのかな…と勝手に解釈している。

 

これまでの人生を振り返って

中学から家を離れて以来、東京や大阪の都会地もあれば、豊橋や宮崎の地方都市、宇和島では「それ、どこの島?」と言われ、武生(越前市)は初めての雪国と、さまざまの土地を転々としてきたことがまさに私の人生であり、家族の歴史であろう。

仕事は厳しかったが、休日は転勤族の特権と思って、あちこちに行きまくって楽しんだ。海も山も、季節ごとの花々も。奥琵琶湖・高島のメタセコイヤの並木、能登・白米の棚田、奥飛騨の山並、大山や乗鞍岳登山、上高地散策…は、生涯の宝物となっている。

 

これまで生きた証の一つが「人との繋がり」だろう。

中学・高校の部活の仲間(今もOB会で会う機会あり)、大学時代のゼミの仲間(定期的に同窓会を開催、個別に家内同伴で会う友もあり)、以前の職場の気の合った人たちとの再会、マンションのヨガ教室に参加しての交流等は、これまで築いてきた人との繋がりであり、かけがえのないものとなっている。

 

知り合ってから家族ぐるみで三十年以上お付き合いしている友がいる。同じ社宅になったことで出会い、相手夫婦と家内が同郷というよしみから意気投合。お互い転勤してからも一緒に旅行したり、子供の結婚式に呼び合ったりと、ありがたいご縁を大事に付き合ってきた。

 

今では、親同士の付き合いから子供たち同士の付き合いに発展し、両家の関係を子供たちが継承してくれていることを嬉しく思う。

 

公庫を退職。地域貢献活動へ

 公庫退職後に現在地に移住・定住し、やっとここが終の棲家になるのかとしみじみと感じた。嬉しくもあり寂しいようにも…

 もうしばらくは会社勤務を続けるが、完全退職しての安らかな日々、縛られない時間、何も考えない眠り、そんな穏やかな生活に憧れる。

仕事も結局は人対人で、人との関係において「自分の思いどおりにならない」ことを認識し、「人に気を遣え」と言い続けた自分にとって、そうはならないことを承知したうえで、とにかく自分の好きなように過ごしたい、生きたいと思うことが「夢!

ぼんやりと考えていることは、何らかの形で地域参加,地域貢献ができないだろうか。

 

多少の金融知識や法律知識と、これまで巡ってきた地での経験を活かした活動ができないか。自ずと芽生えてくる問題意識をボヤキで終わらせず、具体的な提言や改善の「考動」を目指したい。

終わりに

当初は子供や子孫に遺すようなたいした人生でもないし…と、やや尻込みしていたが、だんだんと自分史ウェブサイトづくりにはまっていく自分を感じた。

 

作成の過程では、今まで忘れていたことを懐かしく思い出したり、過去の記憶が蘇ってきたり。また、実家に眠っていた小さい頃のアルバムを目にして興奮したり、安寧としていた生活の刺激となり、精神の活性化となった。

 

また、コロナ禍で控えていた実家に久しぶりに帰って姉と話したり、娘たちとも思い出話をするきっかけとなり、あらためて家族の絆を感じた。

 

AYAクリエイティブ松坂さんとの出逢いがなければ、この自分史ウェブサイトは実現しなかった。

 

制作において、私は福岡に住んでおり、松坂さんは東京のため、距離がかなり離れていた。

お会いするができないため制作がうまくいくのかと不安に思うこともあったが、

今回一度もお会いすることなく、LINE等でスムーズに、かつ短期間で完成までたどり着くことができた。

また、パソコンやスマホが苦手な私に懇切丁寧に操作を教えていただき、安心してお任せ・お願いすることができた。心から感謝!!